焼却炉 その2   

当時の親父との関係性について今回は書こうと思う。

祖父と親父に対する反抗期は小学校の中学年から始まっていた。2人とも男尊女卑的な考えが少し強い人なので、家族で唯一の女性である祖母に対して辛く当たることが多かった。母親の居ない僕を甘やかし気味にしている祖母の態度も気に入らなかったようだ。祖母のおっぱいを母親のおっぱいに見立てて吸っていたぐらいのおばあちゃん子の僕にとっては、それだけで2人のことを嫌いになるのに充分な理由だった。

でも祖父はなんだかんだ言っても、孫の僕に対して優しい時も多かったし、裏庭を通りかかった近所の宗教をしている家族が「良い機会だから…」と勧誘をしてきた時に、庭に置いてあった祖父が趣味でしていた椎茸栽培のホダ木を「罰当たりが!帰らんか!」とその家族に投げつけていた男前な姿は、子供の僕の目には格好良く映ったりもしたので尊敬していた。
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親父は僕の世話は祖母に任せっきりだった。というよりは、子供にどう接していいのかが分からないような感じだった。休みの日に遊びに連れて行ってくれることも少なかった。小学校低学年の時に「空を飛びたい」と子供らしいことを言った僕の背中に、親父はオニヤンマを数匹入れてきた。背中に感じるトンボの気持ち悪い感触で泣き叫ぶ僕に「もう少しで飛べるぞ!飛べるぞ!」とラムネを飲みながら笑っていた親父の顔をしっかり覚えている。床を転げ回ったのでトンボはぺちゃんこに潰れ僕の背中にベットリと貼り付いた。その死骸を祖母が丁寧に取ってくれてる横で、親父はNHKのど自慢を大きな声で自己採点しながら見ていた。そんな風にたまにいじめられることを当時は恨んでいたのだが、自分が三十歳を越えた今になって思うと、あの時は親父も大変な時期だったんだろうなと普通に許せてしまうので不思議である。

小学校高学年になって身体が少し大きくなると、親父への直接的な反抗活動を開始した。よく取っ組み合いを仕掛けたのだが、うちの親父は大学時代にアマレスでオリンピック候補になりかけたぐらいの経歴を持っている人なので、アマレス流のタックルでいとも簡単に僕を地面に叩きつけ、上から全体重をかけてきて、それに耐えれなくなった僕が「まいった」と言って喧嘩はいつも終わった。
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親父はあんまり感情を出さないタイプの人だけど、喧嘩の時はいきいきとしていた。今思えば喧嘩では無くて、こういう形でしか僕とコミュニケーションを取れなかったのかもしれない。親父にもいろいろあったのだ。でもそんなことをまだ分からない僕は親父への反抗を続ける。まともにやっても勝てないことを悟った僕は、陰湿な嫌がらせと遠距離攻撃で親父に立ち向かうことにした。

毎週土曜日に、親父と祖父は囲碁を打つ習慣があった。囲碁には白石と黒石が有り、基本的に弱い方が黒石を使うことになっている。祖父は県大会で優勝するぐらいの実力者だったので、いつも親父が黒石を使っていた。なので、黒石を入れておく碁笥(ごけ)という入れ物の底に事前にマヨネーズを注いでおき、対局終盤で石を取ろうとした親父の指がマヨネーズだらけになるような嫌がらせをよくした。マヨネーズに飽きたら熱湯を注いでおいたりした。嫌がらせに関しては、親父はただ笑っていることが多かった。受け止めてくれたことへの感謝の気持ちで今はいっぱいである。

続いて遠距離攻撃。遠距離攻撃にした理由は、もちろんタックルを食らわないためである。親父の射程距離外からの攻撃。これはスーパーロボット大戦でも有効な攻撃方法である。

代表的な遠距離攻撃としては、まず遠目の距離から親父を罵倒する。「あんたの働いてる森林組合ってなんやねん。森林組合って何ですか~?森林組合(笑)」というような理不尽な罵倒をしばらく言い続けると、我慢の限界を越えた親父がこちらに向かって来る。その瞬間に、ポケットに隠しておいたエアガン二丁で西部劇の二丁拳銃のガンマンのように親父をshootした。僕の顔には自然と笑みがこぼれていたと思う。だが徐々にBB弾の痛みに慣れた親父は、急速なスピードで僕との距離を詰めロケットタックルをかましてきた。その後はいつものように馬乗りになられて終わり。松本人志のライブ「寸止め海峡(仮題)」で、板尾創路が『自分が面白かったのは「ランジェリーヤクザの男」で、バズーカの煙の中をこちらに向かって来る松本人志の顔だ』と言っているのを見た時に、自分もBB弾の嵐の中をかいくぐってタックルしてきた時の親父の顔はとても面白かったなぁと思い出した。

エアガンの他にミニ四駆を使った遠距離攻撃もした。車体のフロント部分に先端を外に向けた釘を横一列にびっしりと貼り付けたお手製のアバンテJr(殺人仕様)を作った。大日本プロレスの凶器みたいだ。殺人仕様といっても、釘の長さとミニ四駆の速度を考えると絶対に刺さらない仕様ではあった。縁側で横になって昼寝をしている親父の無防備な背中に向けて遠めからアバンテを発射。発射前は興奮していたが、いざ発射すると急に怖くなった。でも一度走り出したミニ四駆は止まらない。せめて刺さる瞬間は見ないようにしようと目の前のふすまを閉めた。しばらくしても何も起きないので「もしかして殺してしまったのか…」と恐る恐るふすまを開けたら親父が「なんてことを…」という表情でミニ四駆を手に持って立っていた。その後はいつも通りである。荒波と富士山と鶴という派手な模様をしたふすまを開けたら親父が仁王立ちしていた光景は、映画のワンシーンみたいで忘れられない。
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ここまで長々と書いたが、僕がこんなひどいことをしても鬼のように怒ったりしないで、アマレスタックルからの寝技で許してくれるような寛大な親父だったので「今回の耳のおばちゃんの件もそこまで怒ったりしないだろうし、もらってもいつものタックルだな」という軽い気持ちで家に帰ったということが言いたいのだ。

親父との関係は今は非常に良好である。でも今回書いたような自分に都合の悪い思い出話になると、お互いに「覚えてない」の一点張りになる。
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by tsume_kirio | 2013-03-15 21:11 | 焼却炉 | Comments(0)

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